門田 恵理子
北野工業株式会社 代表取締役
泥まみれの誇りを100年先へ。幸せを繋ぐ物語(前編)
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- Maeda Takashi
北野工業株式会社
1947年設立の土木石材店を前身に、1964年5月25日設立。都市ガス配管工事業、土木設備事業、管更生事業など、時代の変化に合わせて近畿地方の広範囲で各家庭のライフラインを支える事業を行っている。
「座っているだけでいい」と言われ飛び込んだ家業は、そろばんと手書き伝票が残る「昭和」の真っ只中だった。人材サービスから転身した門田代表を待っていたのは、職人たちから「宇宙人」と呼ばれるほどの深い断絶。父が遺した「お前はなぜここに来た」という問いの真意を探し求め、暗闇を彷徨った日々の葛藤を綴る。
地中の鉄管、泥にまみれる過酷な日常。「ガス工事」という言葉の裏側に、これほど熱く人間臭い「いのち」の物語が眠っているとは誰が想像しただろうか。父の急逝、異業種からの承継。職人から「宇宙人」と呼ばれ、孤独なトンネルを彷徨った門田代表。彼女を救ったのは、泥だらけで人々の生活を守る者たちへの、剥き出しのリスペクトだった。「幸せ創造インフラ業」という志に辿り着いたとき、北野工業株式会社は単なるガス工事業を超え、未来を繋ぐ「大家族職人集団」へと変貌を遂げる。これは、一人の女性経営者と不器用な仲間たちが織りなす、魂の記録である。
プロローグ:1枚のディスクにこめられた、60年分の「繋がり」
――本日はよろしくお願いします。事前に60周年記念の動画を拝見しました。人それぞれの多様な声があって、それもあえて載せているのがいいなと思いますね。自由な感じがして。
門田:本当にありのまま載せる形で集めました。「動画を作る」って伝えると、職人のみなさんも言葉を選んでしまうと思って、あえて伝えずに集めたんです。そしたら一人ひとり話題の違う、ちょっととりとめもないメッセージが集まったんです。家族の話とか、自身の話とか、趣味とかね。特に口下手の子(職人さん)はやっぱり伝わりづらい感じですし。でも、そんなのを振り返ってご家族と一緒に見てくれたら嬉しいなと思ったりしています。若い子は10年前の自分はどうだったかと見返すこともできると思います。
――職人さんのご家族が出てきたり、お父様へのメッセージがあったり……すごく胸が熱くなったんです。
門田:ありがとうございます。この仕事ってご家族の協力がないと……。例えば夜間の工事もありますし、普段から全身ドロドロで帰ってきたりするんですよね。そうすると、私が奥さんだったらお洗濯大変かなって。ご家族も手洗いしてから洗濯機で二度洗いなど、色々大変かと思います。ですが、お父さんが現場でどんなふうに頑張ってるか、ご家族が知る機会って少ないじゃないですか。そこを伝えたいっていうのがきっかけであの映像を作ろうかなって思い立ったんです。60周年の時は、本人たちには内緒でお父さん、お母さんに対する絵とかメッセージとかを集めて組み込んでみました。奥さんとか娘さんとか親御さん、お孫さんがそんなの書いてるって本人たちは全然知りませんでしたので、記念式典当日まで内緒で作成しました。
――私も想像したら泣けてきますね。
門田:私はいまだに何度見ても胸が熱くなるんですよ。中には現在亡くなった方もいらっしゃったりもするので。あれを見るたびに、「ずっと繋がれてきたんだな」って。
第1章:予期せぬ承継と、「昭和レトロ」な衝撃
――はい。では質問に入らせていただきます。そもそも、門田代表がこの世界に入られた経緯というのは、お父様のご不幸がきっかけだったんですよね。
門田:入社は2010年です。正式に事業を承継したのは、その8年後です。父がもともと体が弱くて心臓を患ってたんで、いずれかは誰かが継ぐんだろうなと思っていたんです。長男の兄がいるので、兄が承継するもんだと。その中にはどこか自分事ではないという捉え方があったのでしょうかね……。というのも、私は血の繋がりがないので、父と。だから、そこは余計に私が入り込むべきものではないのかなっていうふうに思ってました。もちろん土木工事業という世界も全く未知の世界でしたし。
だから、このまま自分の好きな道で進むんだろうなと思いながら、兄も私もお互いが好きなことを仕事にしていたんです。私はどちらかというと、常に人との接点を持つ仕事が好きで、逆に言うとじっと座ってする仕事とかがあまり得意ではありませんでした。入社直前までは人材サービス業界で提案営業に携わってきました。一方、兄は先頭に立ってやっていくタイプではなく優しい気質の人間でして、大学を出てすぐ大手の鉄道企業に勤めていました。
でも2009年に、父が心臓病に加えて、がんになったという知らせを受けました。兄はずっと継ぐのを渋ってたんですよね。「自分は父の引いたレールには乗らない」とか、なんだかんだ言いながら、たぶん、社長をするという決意になかなか至らなかったのだと思います。そんなこんなしてるうちに、母が私たち兄妹に「誰も継がなかったら会社を畳もうと思っているらしいよ。お父さんが一代で築いた会社が無くなってしまっても、あなたたち、本当にいいの?」って聞いたのです。父は一切私たちに心の弱いところを吐こうとしませんでしたので、直接的に相談されたことは全くありませんでした。でも、自分の命が僅かだと悟った時、深く考えてたのではとは思います。
それで兄が入社を決めて、「これで良かった」と思ってたら、母から「お兄ちゃんは優しい気質の人間だけど、きっとこの会社は猛者たちがたくさんいて苦労すると思うので、できたら一緒に入社して兄を支えて欲しい」と言われて悩みましたが、程なくして私も入社させていただいたんです。兄が入社して2ヶ月後です。そこからさらに2ヶ月後に父が他界してしまいました。入社当時、兄は副社長だったんですが、父の死と同時に社長に就任したことから、兄も苦労したと思います。
まず異業種だし経営も知らないしで何もわからない中のスタートでした。入社当初、父から初めに言われた仕事は「経理総務を見ろ」でした。たぶん人生で一度も興味を持ったことがないというか、一生やることがないと一番避けて通ってきた繊細な仕事なので、かなり悩んだんですけど。父は「社長の娘としてお前は座っとくだけでいいんや」っていうことを言われ、その意味もよくわかっていなかったんです。そして、そのくらいの気持ちで入ったのが2010年の4月ですね。
その時点で私は単なるいち経理で役職も何もありませんでした。それでも、無意識に入社した時から経営者視点を持たないといけないという思いはすでにあって、そこからなんとなくの危機感をずっと抱いてました。あまりにも会社が時代錯誤で、昭和な会社だと感じてしまっていました。それまでの仕事では、概ね経営者、役職者の方と向き合う仕事をしてきたので。だから、経営ってたぶんこんな単純なことじゃないんだろうと考えつつ、このままで大丈夫なのかなって思ってました。
――先ほど、前職が「人材サービス」だったと伺ったのですが、具体的にはどんなお仕事をされていたのですか。
門田:もともとは求人媒体の提案です。そこから人材紹介業に移り、最後は人材紹介業をコンサルティングする仕事に就いていました。人材採用のご相談だけでなく、組織・規則創り、時には「これ、どうやったら売れると思う」みたいなサービスを展開する上でのご相談も受けたり、企業様と深く関わる業務をしていました。
――ということは、下地みたいなのがそれなりに。
門田:その経験が今に生きるっていうのは、後で気づいたことです。当時は、BtoB営業っていうんでしょうか、この仕事がもう本当に好きでした。お客様の業態・業界が自分の経験値になかった場合は、「自分の知らない世界を知れた」とか、「世の中にこんないろんな仕事があって、こんな志を持って事業をされているのだ」とか、業種問わず見てきて体感できたので。
――いざご自身が社長になるとなった時、どんな感想でしたか。
門田:さっきも言った危機感、焦りをずっと抱えてました。それでもまず1年間はこの会社のことを知ろうと、何も文句も言わず丁稚になって、起こったことをとりあえず吸収しながら過ごしました。ですが、過ごせば過ごすほど、恐怖しかなかったです。会社の未来に対する恐怖。得意先が一社依存型だとか、土木作業員と世間一般的な会社員とは違う対応とか。当時、就業規則もあってないようなもので、残業も計算してないし、有給休暇という概念もなかった。社内に「現場があれば動いて稼ぐ」みたいな職人気質な考え方があって、みんな納得して働いてたんです。私は、良くも悪くも仕組みが整っている会社とか組織の中でずっと生きてきたので、危機感しかありませんでした。入社前に父とも「就業規則無視の会社とかないでしょう」「そんな仕組みで大丈夫なの?」みたいな話をしてました。
私に経理を教えてくれた当時のお師匠さんは、まだそろばん使ってたんですよ。シャーって弾いて、全部手書きで伝票切って、ゴムで止めて(笑)。「これ、いつの時代?」って。ほんと、よく言えば「昭和レトロ」なやり方でした。私自身が初めて経理の仕事をやってどうだったかっていうと、「振替伝票書け」って言われても「なんのこと?どう書くの??」みたいな(笑)。「貸借合ってないよ」って言われても意味もわかりませんでした。お恥ずかしながらそんな状態だった。まず基本を覚えるのに必死だったんです。その上で、「ここで何が起こってるんだろう」とか「みんなどんなことを思いながら仕事してるんだろう」私が知らなければ、自分の主張っていうのは聞き入れてもらえないと思っていました。
会議にも、「何も喋らないので入れてください」って言って入れてもらってました。それでも時々ポロっとお話をすると、「いや、あなたはサラリーマン(ホワイトカラーの会社)っていう違う世界から来たから、俺たち職人のことはわからない」って言われる。「皆さんもお給料もらってるので、同じサラリーマンですよ」って言うと、「いやネクタイしてる人がサラリーマンだ。俺らはサラリーマンじゃない」とか言われまして(笑)。「私が宇宙人で他の皆さんが常識」っていうことをよく言われてたんですね。あらゆることがカルチャーショックでした。私の中で、なんにも言葉が通じない。英語圏で一人で関西弁で喋ってるような感覚がずっと続いたんで。
そんな中でも、父は生前「みんな悪い意志を持ってやってるやつはおらん。そこだけはわかってほしい。とはいえ、お前が入ったんやったら、お前の好きなようにやったらいい」とだけ言われていました。
第2章:正しいけれど、誰もついてこない
門田:2011年に盛和塾大阪(※注)に入ったんですけど、これがまた心に火をつけられちゃうんですよね。「私は経営の勉強をしないといけないと思っている、わからないから話ができないのだと思う」と元上司に相談して紹介いただいたんです。それで紆余曲折ありながら入塾許可をいただけて、有難いことに経営のことを学べる機会を頂きました。
盛和塾に入った時も、私が経営者の中に入って勉強しに行くっていうのは、職人さんたちにあまり好意的には思ってもらえなくて言えなかったんですよ。ずっと嘘をついて、「アポイントがあります」「前の会社の人に会います」とか言いながら学んで、塾の主催する合宿に関しては土日開催だったのでバレずに参加してきたりもしました。振り返ると、自分がごまかしごまかしやっている間は、やっぱり会社は変わらないって気づいたんですよ。だって実践ができないんで。
当時は言葉にすると、すごく消極的な自己犠牲。父のために会社を継がなければいけない、残された社員さんを守らなければいけない……全部、そうだったと思います。自分のイメージはもう真っ暗なトンネルの中。みんなが私の思いに賛同してくれなくて、すごく孤立していました。例えば、塾で習う正しいことを意気揚々と語るわけですよね。そうするとみんながどんどん遠くなっていく状態。でも、塾に参加すると社員さんとすごく向き合ってる理想の経営者の方々が目の前にいる、どうしてうちはうまくいかないんだろうって悩みました。そのたびに、「それは私が社長じゃないからだ。兄がトップだから、私は動けないんだ」「社長である兄が想いを発信しろ」って、ずっと兄に当たってたんですよ。「私は社長じゃないからここまでしかできない」とか言い訳をいっぱいしながら。
そして、盛和塾で1回目の経営体験発表をした時は、「こんな風土が時代錯誤なんだ」と、「こんなことありえない」みたいな、自社の悪いところをつらつら発表していました。今も当時の原稿を読むと凄く恥ずかしいんですけど。そこで、当時の委員長から、「いやいや待てよ。右も左も分からないし、しかも社長の娘やっていうだけで、受け入れてくれた会社があるんでしょ。まずなんでそこに感謝をしないの?何の役に立つかどうかも分からない貴方を受け入れてくれた会社でしょ?」って言葉を頂きました。自分に矢印を向けてないっていうのにも自覚はあったんだけど。受け入れることができていなかったんです。
今となったら、会社のために全力で職人の皆さんは動いてくれていると心から思えるんですけど。当時はみんな好き勝手やってるように見えて、敬語も喋れないだけでなく言葉も荒いし、好きなこと言ってばかりで、なんだこりゃみたいな思いでした。事務所の中で、私一人だけが浮いてる異物みたいな扱いで。当時はみんなが敵だと思ってしまっていて、会社を良くしようと思っている人なんていないと思い込んでいました。
第3章:「お前はなんでここに来たんや」
――では、その「言い訳」から脱却し、覚悟が決まった瞬間について詳しく伺えますか。
門田:55期の決起大会の直前ですかね。盛和塾で3回目の経営体験発表をする機会を頂いた際、ソウルメイトの方々と対話をした時に言われたんです。「『社長じゃないからできない』とか『楽しくできない』っていうのは、それは言い訳ですよね。今の立ち位置だからこそできることってあるんじゃないか。お兄さんを支えたり、あんただからできること、やりたいことをやってないよね」って。
その瞬間に、「やりたいことをやってないな」っていうのに気づいたんです。ストンと降りてきた感覚でしたね。「もっと楽しもう」と覚悟が決まったその時が、私が経営者に一歩近づいた瞬間だと思うんです。その時、同じく塾生だった兄も経営体験発表の予定があったんですが、未来について描くことが出来なかった。結局兄が導いた答えは「僕には他にやりたいことがあります。自分で会社を作りたい、ここを出たい」でした。兄が自分の意志をはっきり自己主張したのも初めて。「私がガミガミ言うから居場所をなくしてしまったのかな」とか、「経営状態も良くないのに無責任なんじゃないか」とか、いろんなことが頭の中でぐるぐる回りました。ですが、これが宇宙の意志っていうのかどうかわからないんですけど、その時「自分の中に『これがやりたい』とか『こう進みたい』って何か覚悟が立ったから、周りが勝手に変わっていったのかも」って思えたんです。
結局、銀行さんとの取引の関係とかもあって、期中の11月に大急ぎで事業承継をしました。きちっとレールが引かれて準備された承継ではなく、本当に急でした。でも、塾に入って8年弱経ってたので、その間に変化があったと思います。兄がそう言い出す時が来るかもしれないっていうのも、なんかうっすら感じてたから。一般的には考えられない承継の形だと思うんです。父が亡くなった時も、私が承継する時もそうだったし。なので、私の承継っていうのは、綺麗にレールが引かれたものだったり、準備されたものでも、バトンゾーンみたいなのも一切なかったんで、ずっともがきながらやってきたんです。
――「なんかうっすら感じてた」って伺いましたが、背景とかあるんですか?
門田:そう……。父は亡くなる前に、いくつかの謎の問いを残していて、その答えを追求し続けている感があります。私が入社した日、父に言われて社長室に上がっていったら、父が酸素ボンベを背負いながらすごい怖い顔でね、「お前はなんでここに来たんや」って言うんですよ。その時、意味が全然わからなかった。「お父さんのために決まってるやん」とか色々考えましたけど、「自分で決めてここに来ました」っていう一言を吐いた。そしたらニコって笑って「わかった」ってことだけ言ったんです。
めちゃくちゃ暗闇にいて思い悩んでいた時期は、「お前、経営はそんな甘いもんやないぞ、覚悟を決めてやらんとあかんぞ」と言いたかったのかなってずっと思ってたんです。でも、3回目の経営体験発表の時、真っ暗な世界の中にポツンって1個だけ白い光、天井に穴が開いて、バッて光が差し込んだような感覚があって。その時にその問いがふっと降りてきた。「せっかく社長になったんだから楽しめよ」「やりたいことを遠慮なくやってみなさい」って、父が本当に言いたかったことなんじゃないかな。その時に、自分の中で解釈が変わったんですよね。
[門田代表は何かを噛みしめるように、静かに上を見上げた。数秒の沈黙の後、言葉を詰まらせながら続けた。]
はあ、……ちょっとうる、うる、うる、、きますね。話をすると過去の思い出とかなんかこう、泣いてはないですけど。うるっときてるなってありましたね。
――お父さんの言葉と、その今後の未来みたいなのが、そっと繋がったような感じですよね。
門田:なんだか、謎が解けていくっていうか、答えはわからないけど、ずっと自分の中でもやもやしてたの一つ一つ、パズルのピースが埋まっていく感じですかね。そうすると景色が見えてくる。散りばめられてたものをずっと見ようとしてなかったから、職人のみんなの声もずっと拾おうとしなかったから分からなかったんだって気づいたんですね。だから塾に入ってなければ、たぶんそういう気づきはなかった。私は社長やってないと思います。
――それはなんとなくわかります。経営の正解みたいなものって、現場以外にも求めないといけないですし。
門田:盛和塾には自分がその時に欲しかった答えをくれる方が周りにたくさんいらっしゃったなって思います。例えば「私はこの作業が苦手、兄はこういう世界観が苦手」って聞いたら「お互いに苦手とするところに今置かれてることに意味があるんじゃないの?でも自然とそういう世界に置かれてってということは、そこがクリアできたら、あなたたち2人は無敵になるんじゃないの?だから今は、修行だよ」って言われました。だから、その8年がなければ、私は社長をやりますって言えてなかったはずです。景色が見えない状態だから。「あえてその期間が私には必要で、全部意味があった、お導きなのかな」とか思ってます。
――覚悟が決まった時、行動がどう変わっていったんですか。
門田:「隠れて塾に行って後ろめたい気持ちでやってたらそれは無理だよな」と思った瞬間に、塾も堂々と行くようになったし。「絶対会社に持って帰って、事業をおろそかにしないから、行かしてくれないかな」っていう話を職人さんたちにしたら、「社長、行ってきてください!うん。僕たちにできないことは社長やってるから」っていう言葉が返ってきました。
そこで、「学びを私物化しない、絶対社内に還元する」って思いが強くなって、全従業員に経営体験発表を聞いてもらおうと思ったんです。弊社の社員さんが40人ぐらい聞いてくれた発表もありました。中には「社長が何言ってるかようわからん」って言う子(職人さん)もいましたが、「社長がなんで学び続けてるかっていう理由だけはわかった気がする」とか、「社長は何かやってくれると思ってるから僕はここにいる」って言ってくれる若手がいたり。それはもの凄く嬉しかった。
だから、自分のやりたいことも、学びも、全部。覚悟を定めて、実践に転換してくことが必須なのだと思っています。
注:盛和塾は、京セラ株式会社の創業者・稲盛和夫氏が主宰していた経営塾です。塾生は互いをソウルメイトと呼んでいます。